ペットロスは時と共に癒される?

大切なものを失った喪失感は時と共に癒されるのでしょうか

 ペットロスに限らず大切な存在を失った場合「時が癒す」と言われることがあります。確かにそれも一理あるし、今までは自分もそんな気がしていました。

ですが時がたつことで感じたのは「癒されてきた」のではなく「失った存在がこの世にいないのだ、と言う生活に慣れてきた」という方が当たっていました。

そして、癒されているわけではないと感じています。今更ながら『癒される』という言葉の深さ・複雑さに気づきました。震災で大切な存在を失った方々も、きっと一生『癒される』ことはないのではないか。ただ、今の生活に「慣れてきた」に過ぎないのではないか。そんなことを改めて考えさせられました。

『大切な存在を失う』という経験も人それぞれ異なり、一つとして同じなんてことはないでしょう。出会い方・出会った時の当人の精神状態・その後の互いの関係などにもよるでしょう。それぞれに後悔・自責の念・喪失感・生活の変化など状況は千差万別。一様な表現をすることは出来ません。当然、『癒される』かどうかあるいは『癒される』方法も一人一人異なり、その違いを尊重しなくてはならないものだと感じています。

悲しみや辛さを支えてくれる周りの人への感謝

 大切な存在を失った場合、悲しみからなかなか抜け出せない人は多いはずです。そもそも、そんなに簡単に抜け出せるのはそれ程の存在ではなかったか、あるいは相当心の強い方なのでしょう。自分の場合、今回はかなり堪えています。

有難いことに、今回は娘が支えになってくれています。数年前までは結構きついことを言われていましたが、こちらが年寄りになって来たからなのでしょうか? まあ、兎に角運良く精神面で支えになってくれています。有難いなと思います。若い頃には一人でも立ち向かえた困難も年齢と共に乗り越えるのはキツくなってくるものですね。

年齢によって悲しみの深さや立ち直りが異なるペットロス

 ペットロスも若い方々より高齢者の方が衝撃も大きく、立ち直りにも時間がかかります。一つには自分自身の心身の衰え、それと、高齢者は若い方々に比べ「死」を身近に感じています。決して「死ぬのが怖い」とか「死にたくないとか」そう言った類のことではないのですが、「死」を身近に感じることでどこかの部分が亡くなった存在とオーバーラップしているのかもしれません。

また、高齢者は仕事をしていないケースも多くなります。仕事があればどんなに悲しくても職場に行って仕事をしなくてはなりません。その時間は悲しい思いも脇に置いて業務に専念しなくてはなりません。そのことで、日常生活にリズムを戻すことが出来ます。また、客観的になることも出来るのですね。

残念ながら、仕事をしていないあるいは家で一人で仕事をしている高齢者は職場に赴き他の職場の人たちと交流することもないので『悲しみの心』を一日中抱えやすくなるのだと思います。

自分を客観視するためには

 外に職場をもたない場合はある程度落ち着いてきたところで外出してみましょう。家の近くを少しばかり遠くまで足を延ばすだけでも気分が変わります。見慣れない外の景色やお店などを見て、悲しみでカチカチに固まってしまっている心に少しばかり新鮮な空気を入れてみましょう。

悲しみでも怒りでも、何か一つの事で心がかちかちに固まってしまうと身動きが取れなくなってしまいます。その状態があまりに長く続くと、そのカタマリはいずれ石のようになってしまい最後には化石のようになり、心は死んでしまいます。あなたがそのような状態になることは誰も望んでいません。亡くなったペット、亡くなった大切な人もそんなことは望んでいない筈です。

初めは少し大変でも、自分を客観視する努力をすることは大切です。ご自分のためにも、あなたを心配してくれている周りの人のためにも、そして何より亡くなったペットや大切な方のためにも。

とても大変な作業で努力のいることでしょう。でも、少しずつ頑張ってみましょう。ただし無理やり性急にではなく、徐々に丁寧に頑張ってみましょう。